『大人になったら淋しくなった』に思うこと

「三つ子の魂百まで」とは有名なことわざであり、実感することも多々あると思います。

公私で言えば、三つ子が“私側”だとすれば、社会人を“公側”として、

「社会人三年目の魂も百まで」と造語までして追加したくなるのは私だけでしょうか。笑

 

私自身のあの頃や、その後年齢を重ねて新入社員と関わった時のことを振り返ると、社会人になった最初の3年間というのは本当に特別で、各々の世界でいったん赤ちゃんに戻ったくらいの真っ白な感があるからです。

 

そして全くの個人的見解ですが、その所属した組織の大小や知名度等というよりも、直接指導をしてくれる周囲数人の上司や先輩たちの生き様みたいなものが、良くも悪くもその後の長い社会人生活に、計り知れない影響を与えるような気がします。

 

現在70代でいらっしゃる作家 藤堂志津子さんの『大人になったら淋しくなった』は、彼女が40代後半の頃に書かれたエッセイです。

 

作家に専念される前の数年間を管理職として働いた広告会社で、部下教育の基本にしていたというアドバイスの部分が印象的でした。

藤堂さんご本人が、新卒で入った会社をすぐに退社してしまうという苦い経験から味わった「イヤなこと」を、自分自身がしてはいけないし、若い人にもさせてはいけない、という思いが強いだけに、厳しさと優しさを感じ取ることができます。

 

 カゲ口を言うくらいなら、正々堂々と相手に異議をとなえるべし。上司であろうと仕事上の喧嘩はいくらでもしてかまわない。

 精神主義的な「根性」を他人に押しつけないこと。それよりも相手の立場を想像力をもって理解し、冷静に分析すべし。

 自分の現在のポジショニングをつねにふまえつつも、会社全体の動向を見つめ、その中で再度おのれの位置を認識すること。

 だいたい、そういう内容をくりかえし部下たちに言っていたのだが、もっともしつこく強調したのは、対人間の見方だった。

「他人は、あなたたちが思っているほど愚かではありません。あなたたちが考えている以上に相手はあなたたちの本性なり性格なりズルさなりを、しっかりと見ています。でも、他人はいちいちそれを口にはださない。だから、あなたはそれに気づかない。そしてさらに相手を見くびる。ところが、そういう態度も相手はちゃんと見抜いています」

 

SNSの発展や様々なハラスメントへの警戒等々、どんな立場の人たちも皆がみんな気を遣う要素であふれかえっていて、はっきりとした言葉で発言をすることにも、少なからず勇気がいる時代であると私自身感じているからか、30年以上前のお話ではありますが、考えさせられる言葉です。

 

この他にも、様々な事柄に対する彼女のポリシーのようなものが詰まった、読み応えのあるエッセイですが、総じて言えるのは ”覚悟を決めた大人は強い” ということでしょうか。

 

「あとがき」ではその強さと合わせて柔らかさも垣間見られながら、締められています。

 現在の私は、年齢的なことだけでいえば、いやになるほどの大人である。

 そして、子供の頃にいだいた、たくさんの「?」は解明されるどころか、むしろ、もっと複雑に入りくんだ形でふえている。

 こんなはずではなかったのに。大人になったら、あらゆる疑問はきれいに解きあかされるとばかり思っていたのに。どうして、こうなってしまったのだろう・・・(中略)

 その昔は、大人になったら、という夢があった。いまの私に、そういった夢はない。

 なんのことはない。私は大人になってみると、子供の頃より、もっと、ずっと淋しくなっただけだったらしい。それに気づくために、大人になったのだろうか。

 ただ子供の頃の淋しさとは異なり、現在の私のそれは、おだやかな淋しさ、でもある。「まあ、こんなものだろう」という、あきらめのコロモにつつまれている。

 そして、このあきらめは、悪くはない。ある種の静寂感があり、子供の時分より、ずっと呼吸がしやすくなっている。この静寂も、若年の私が求めてやまなかったものだから。 

   出典:藤堂志津子 大人になったら淋しくなった