小さな幸せを見つけられる才能

餃子が食べられることに、尋常じゃないテンションで喜び勇む子供たちのCMを何気なく見ていたら、その高いテンションとは対照的なノスタルジックな気持ちになった自分に・・・動揺しました。笑

 

晩ごはんのおかずが餃子とわかって、全力疾走して踊り始めるテンションにもっていける感性は、はるか昔に失ってしまっている私ではありますが、考えてみると子供の頃、親に “びっくりドンキーへ行くよ” と言われた時は、ヤッホーイ‼ と叫びながらその辺を駆け回った記憶もあるし、週末に “ジャスコに行くよ” と言われただけで、今なら海外旅行レベルかそれ以上の武者震いをしていた事実が、私にも確実にあったということを思い出しました。

先日読んだ、川上未映子さんのエッセイの中に、面白いエピソードがありました。まだ語彙を持たない2,3歳頃に、「気分のムラがある」と川上さんを評していたということを、小学生に成長した甥っ子から聞かされたことに軽いショックを受けながらも、その感性を冷静に分析されています。

言葉がないゆえに個人的な感覚にとどめるしかなかった子どもの小さな目のなかのできごとが言葉と出会い、やがてそれらが外部性を持ってゆく=ある意味で鈍くなっていく様は、もちろん避けがたく必要なことではあるけれど、しかし一抹の淋しさを醸すのだった。もう後にはもどれないのだよね。(中略)

こういう冴えかた&面白みが第二次性徴を迎えるまでのイノセンスであることはみなさんご存じの通り。感覚はこれからどんどん平均化され、よく似た喜びにまみれて大人になって、そこから抜け出すか共存するかしておそらくは短くはない人生を送るのだなと思えば、ようこそ!って気持ちと来るな!って気持ちの、ふたつがあるね。 出典:川上未映子 人生が用意するもの

 

人間は年齢を重ねて、経験を重ねて、交友関係も行動範囲も広がれば広がるほど、初めてとかレアとかいった新鮮な気持ちが薄れていくのは当然のことで、むしろそれこそが成長の証であることも事実なわけなので、いつまでもピュアな心を忘れないで…なんて綺麗事を言うつもりは毛頭ありません。

 

ただ最近強く思うのは、大人になっても、日常のそこら中に散りばめられている “小さな幸せ” みたいなものを敏感に察知できる人は、やっぱり無敵なのではないかということです。

他の皆さんのブログを読んでいても、そんな些細な幸せを見つける天才みたいな方がいらして、もうこれは立派な才能の一つなのかなと思わされます。

 

最後に、そんな小さな幸せについて、吉本ばななさんが絶妙に語っていらっしゃる私の大好きな文をご紹介したいと思います。

小さな幸せは、たくさん集まるといつの間にかセーフティネットになるのだと思う。

 人生は決してどの段階になったから楽になるっていうものじゃない。いつでも理不尽でたいへんで思い通りにならなくて、切なくて苦しいものだと思う。

 小さな幸せは、たくさん集まっても決して大きな幸せにはならない。

 でもふっと人を救ったり、よく眠らせたり、他の人に感染したりする。

 それが最終的にはたまたまそこにあった網みたいに落ちていく本人を救うことがある。

 その程度ではあるけれど、その存在、すごくいい。最終的に大きなものになる可能性だってある。

 大人になると子どもだった頃みたいには無邪気にものが考えられない。

だからこそ、小さな幸せは「なん個」と子どもみたいに数えたい。(中略)

 小さい女の子がしゃがんで小石を数えているみたいな無心さで幸せを見つけられたら、その人はどんな境遇にあっても決して不幸ではない。 

出典:よしもとばなな 小さな幸せ46こ