ひとりディベートも悪くない

人っ子一人いない交差点に自分一人、赤信号を待つシチュエーションになったとき、必ず思い出してしまうほろ苦いエピソードがあります。

 

カナダのバンクーバーで語学学校に通っていた時のこと。ヨーロッパや南米、そしてアジアから沢山の学生が集まった国際色豊かなクラスで、先生がある質問をしてきました。

 

「人も車もいない交差点で赤信号のとき、あなたはどうしますか?」

「道端にお金が落ちています。さてあなたはどうしますか?」

 

学校という場で先生から質問されたら、

「青信号になったら渡ります」「交番に届けます」

という回答にひとまずは落ち着く方も多いのではないでしょうか。

“渡った先に人が倒れていて助けを求められていたら…” とか、“全財産を騙し取られて1000円しか残金がないなら…” とかいう例外的な状況抜きの設定なら、これらをあえて議論の題材にするまでもないのではないか・・・と。

 

そしてそれはざっくり言えば、日本人以外のクラスメイトにとっても同じ思いだったようです。ただし、回答は真逆の意味で。

 

人格的にも慈悲深く、マザーテレサの末裔のようなクラスメイトでさえ「赤信号だろうと、誰もいないなら渡る以外に答えがあるわけ⁉」「お金が落ちてたら幸運に感謝してもらっとくに決まっとるじゃん‼」との自信満々な回答に驚いたのもつかの間、先の日本人的回答を聞いた後の「Oh my god・・・」からの、言葉を失い、開いた口が塞がらない見本みたいな彼らの表情にも、衝撃を受けたのでした。

 

 

日々の生活で、事あるごとに密かに “自称ひとりディベート” を開催するようになったのは、恐らくその時からだと記憶しています。笑

生きていると、大なり小なり決断をしたり判断をしたりの連続だと思いますが、自分の下した結論に、ひろゆきクラスの反対勢力がいたら、どんな主張をしてくるのだろうか・・・(笑)とほんの一瞬思い巡らすだけで、思考の幅が広がったりして、物事を随分とかわしやすくなったような気がします。

 

脳科学者の中野信子さんが「車通りのない道で赤信号を待つ人に共感した話」としてあがっていた記事を偶然読んだのですが、素敵なお話でした。

 

”信号が青になるまでの数十秒の間、そのわずかな時間のズレによって起きるかもしれない運命のいたずらを楽しんでいる。この運命のズレのおかげで、素敵な友人に出会うことができるかもしれない。混んでいるカフェで偶然、そのタイミングで席が空いて座れるかもしれないし、スーパーで買いたいものが30%引きになるかもしれない。この数十秒を待つことが、自分に何かいいことが起こる未来につながっている”

 

というような思いを込めて信号待ちをしている、という人の話をご自身がネットで見つけて共感されたそうなのですが、私としては、以下の中野さんの解釈の方にも強く共感しました。

 

『この人にとって赤信号で止まるというのは、盲目的にルールを守るという思考停止の所産ではなく、運命を楽しむための能動的な選択なのだ。自分は我慢しているわけではなく、よりよい未来への選択を主体的にしている。だから、信号を無視する誰かを見ても、別に腹が立つことはない』

 

“法令で決まっているから赤信号で止まっているんだよ” の一言で片づけることもできてしまう話題を、未来への希望にまでスケールを広げて論じることができるような「思考の柔軟性」を身につけていきたい私なのでした。

何かと話題の成田悠輔氏なら、どんな答えが返ってくるんだろう。