文章は人を表すのか

生まれ変わったらミュージシャンになりたい!などと、事あるごとに暴走じゃなくて空想してニヤついているのですが、この夢ある空想世界に時々割り込んでくる職業があります。

「プロファイラー」※プロボウラーではありません

 

猛烈にかっこよくないですか?笑

 

ご存じの方も多いと思いますが、プロファイラーとは犯罪心理分析官のことで、犯罪捜査においてその性質や特徴から行動科学的に分析をして、犯人の特徴を導き出すプロファイリングの専門家でもあるわけですが、この “プロファイリング” という言葉にゾクゾクっとしてしまう私は、変人でしょうか。

 

凶悪事件の犯人をプロファイリングするのは来世に送るとして、例えば

職場のデスクはいつも整えられ、容姿も洗練された同僚の女性が住んでいた家がゴミ屋敷だった…とか、

毎日スッピンの、人見知りで大人しい後輩から見せられたスマホの写真フォルダには、ド派手なコスプレをしたパリピギャルみたいな自撮り写真ばかりがあふれていた…

みたいな実際に周辺で起こった、言わば事件に遭遇すると、その違和感に潜む心理なんかを分析してみたくなったり。

 

勤怠管理を担当していた当時、面識のない社員一ヶ月分の打刻一覧から、 “お金に異常なまでにシビアな人物” と、密かになんちゃってプロファイリングをし、後に飲み会で一円単位で支払額をはじき出している人だと知った時などは、FBIからスカウトが来るのではないかと錯覚したことも。笑

ちなみにこれらは、すべて心の中で自己完結しており、勝手に時効をむかえた話です。

 

 

岩井圭也さんという作家の方の、新聞に掲載されていたコラムの中に

「何を書こうとも必ず文章にはその人自身が滲み出す」

という言葉がありました。ブログを細々と更新している身としては、これまたゾクゾクっというかヒヤヒヤっとさせられるものがあります。

 

確かに偶然手にした作家のエッセイなどに興味を惹かれ、他の作品も何冊か読んでいくうちに、彼や彼女の思考や立ち居振る舞いにあらわれる、生き方のファンにいつの間にかなっていることは、私にとってはよくある話で、もはや推しレベルだとしても、ほとんどその容姿については把握していなかったりもするのが、アイドルや俳優を好きになるパターンとの大きな違いかもしれません。

 

手書きでもなくタイピングによって紡ぎだされた言葉で構成された文章から、書き手の感性や美意識といった人柄まで感じ取り、ファンになったり、またはアンチになったりする・・・そう考えると、文章を書くって凄まじい作業に思えたりもして。

とはいえあまり深く考えてしまうと、ブログを公開するボタンを一生クリックできなくなりそうなので、これ以上はやめておこうと思います。

 

さて、先の空想ついでに、もうひと空想させて下さい。

日々いろいろな皆さんのブログを読ませて頂き、共感したり親近感がわいたりと感情を揺さぶられているわけですが、仮にはてなの全ブロガーさんがブログ名を伏せて日本武道館に集結し、お見合いパーティーのごとく順番に会話ができるとしたら・・・もしかして〇〇さんですか!?なんて愛読しているブロガーさんを特定できちゃったりするんだろうか。などとエセプロファイラーの血が騒ぐ私なのでした。

 

 

私は「書くこと」によって誰でも居場所を得られるのではないかと思う。

ここでいう書くものは、ジャンルを問わない、何でもいい。

なぜなら、何を書こうとも必ず文章にはその人自身が滲み出すからだ。

「書くこと」は、書き手の人生を綴ることに他ならない。上手下手とか、技術の有無はもちろん関係ない。

書くという作業は、頭の中にあるモヤモヤとした考えを、強制的に言葉に変換することである。なんとなく寂しい。なんとなく不思議だ。なんとなく不快。苦心しながらそんな気持ちを形にしているうち、「自分が考えていたのはこれだ」という文章を発見することがある。

「書くこと」は自分の再発見につながる。

さらにここからが大事なのだが、自分を再発見することは、書き手を「安心でき、自分らしくいられる場所」へと導いてくれる。 

  引用:岩井圭也 6.30 中日新聞より