“生きるヒント”はたくさんある

4月12日の中日新聞第一面に「戦場の現実 詠む防人」と題して、ウクライナ軍大尉の男性が戦場で詠んだという、ウクライナ語の俳句が掲載されていました。

男性は各地を転戦する極限状態の中で、自ら撮った写真から着想を得て詠んでいるとかで、「戦友や自分自身の死を恐れる中、俳句を詠むことが苦しみのはけ口」と語ったそうですが、この記事を読んで、作家の五木寛之さんの言葉を思い出さずにはいられませんでした。

 

 

私自身、これまで幾度となく五木さんの紡ぎだす言葉の数々に救われてきたわけですが、数あるエッセイ本の中で必ずといっていいほど、V・Eフランクル著「夜と霧」を読んだ時の衝撃と感動について触れていらっしゃいます。

 

アウシュビッツの収容所から生還したフランクル氏が語る、極限状態を生きのびた人たちというのが、屈強な肉体を持った人や強い信仰を持った人…等の想像しがちな人たちだけではなく、むしろ小さな美に感動するとか、風景にみとれる、音楽に心惹かれる…といった人のほうが生きのびる可能性が高かった・・・という体験談を読んで、五木さんご自身の “人間に生きる力を与えてくれるもの” についての考えかたが、次のように変わったと語っていらっしゃいます。

それは大きな偉大なもの、立派な輝かしいものであると同時に、私たちが日常どうでもいいことのように思っている小さなこと、たとえば自然に感動するとか夕日の美しさにみとれるとか、あの歌はなつかしいなといってそのメロディーを口ずさむとか、私たちが日常、趣味としてやっているようなこと、あるいは生活のアクセサリーのようなことが、じつは人間を強く支えてくれる。そういうこともありうるんだなと思わせられる(中略)

 たとえば、俳句を作るということは、いやでも周りの自然とか風景などを見る目や感覚が鋭くなってきます。そういう収容所のなかで、もしも俳句を作るという習慣を持ちつづけている人がいたら、その人はひょっとしたら、他の人よりも生きのびる力が少しだけ強いかもしれない。あるいは音楽が好きで、疲れきっていても口笛で何かのメロディーを吹くような人。また歌うことが好きな人のほうが、ひょっとしたら強く生きられるかもしれない。あるいは絵が好きでスケッチかなにかの日曜教室にかよっている、そういう人だったら、水たまりに映った景色を見てレンブラントの絵のようだと感動できる。そういう人のほうがきっとつよいのではないか。

 こういうことを、私たちはふだんはお稽古事とか趣味というふうに思っています。俳句を作る、ピアノを弾く、花をいける、趣味にもいろいろあるでしょう。ところが、アウシュビッツのような極限状態のなかで人間の生きていく生命力というものを支えるためには、そんな日常の小さなこともまた大きなテコになり得たということを、ぼくはフランクルの本から学んだような気がするのです。

出典:五木寛之 生きるヒント愛蔵版

 

現在の私は、幸いなことにアウシュビッツのような収容所に入れられる可能性は限りなく低いと思いますが、それでも人生の様々な苦難に遭遇したときは、五木寛之さんの著書である「生きるヒント」の中に、まさに “生きるヒント” を見出して、何とかやっていけるような気がしています。

そして “ブログを書く”ということが、日常生活への感性を少し鋭くさせるとしたら、これもひょっとしたら、生きていく生命力を支える立派なテコになり得るのかもしれない、などと思ったのでした。