自分のために泣いてくれる人

何気なく見ていたテレビのトーク番組で、広末涼子さんがポロっと言われていた言葉がとても印象に残っています。

 

「家族とかでもないのに、自分のために泣いてくれる人がいる私って “最強” って思いました…」

 

彼女が苦しい状況に立たされていた高校時代に、友達の一人がまるで自分の事のように涙を流しながら、誤解をしている周囲に反論をしてくれた・・・というようなエピソードだったと思うのですが、一世を風靡して殺人的なスケジュールに追われていたであろう若かりし時に、そんな深い友人関係をしっかりと築き、今でも変わらぬ関係を保っていらっしゃることに、驚くとともに好感を持ちました。

 

 

悲しくて条件反射的に自分のために泣く…ということは生きていれば誰もが必ず経験すると思いますが、自分のためでは1%もなく、身内でもない人や、場合によっては世界情勢なんかに対して心の底から涙を流す…なんていうことは、考えてみるとできそうで、なかなかできないことなのかもしれません。

 

私自身、今でも定期的に食事をする学生時代の友達がいます。2年ほど前に突如として非常に深刻な父の介護生活になった時、誰とも会える心境ではなかったため、しばらく食事会は遠慮していました。とはいえ暗い状況に巻き込みたくない心理がはたらいてか、実際の状況とは対極にある軽いタッチでLINEでのやりとりをしていたつもりの私に対し、同じくライトな雰囲気で返してくれていた彼女が、実は泣きながら文字を打ってくれていたことを後々になって知りました。

 

深刻な詳細なんかはほとんど説明していないのにも関わらず、私の精神状態を確実にくみ取ってくれていた彼女のことを思う時、自分のために泣いてくれる人がいる、という人はもちろん、誰かのために涙を流せるその人自身が、実は最強な人なのではないか…と思わされるのでした。

 

作家の五木寛之さんは、泣くことや涙を流すことに非常に肯定的なだけではなく、その重要性についても沢山の著書の中で述べていらっしゃいますが、「生きるヒント」の中で「潤う」と題して書かれている一部分は、何度も何度も読み返したくなります。

 

ある人がとても苦しんでいる。あるいは痛みを感じて悲しんでいる。あるいは絶望のどん底にうちひしがれている。それをなんらかの形で簡単に助けることができるのなら問題はありません。

 しかし、世の中には、他人がどうしてもかわってあげることのできない、または手助けすることのできない悲しみ、苦しみ、痛みというものもあります。本人だけがそれを抱えて苦しんでいる。他人はもちろん、母親も、きょうだいも、看護婦さんも医師も、どうしてもそれを救ってあげることはできない、そのような悲しみ、苦しみ、痛みというものもたしかに存在するのです。そういう痛みや、苦しみや、悲しみを見ながら、自分ではどうすることもできない。

 そのとき人間にできることは、相手が感じているであろう孤立した痛みや苦しみを自分の痛みや苦しみのように感じ、それを救ったり手助けしたりすることのできない人間というものの不条理に、ただただ深く嘆き悲しむしかない。そこでは黙って涙をこぼすだけ、あるいは泣くだけ、というようなことがあるのではないでしょうか。 五木寛之「生きるヒント 愛蔵版第一巻」より