されど読書感想文

前回の記事でセミとウグイスの鳴き声で朝を迎える…などと悠長に話していたのも束の間、最近ではセミ100%のあまりのうるささに叩き起こされ、窓を開けて寝てしまった今朝にいたっては、頭上の網戸にへばりついたその張り切りすぎの声のおかげで、ライブハウスを出た直後みたいな耳の状態で目覚めた私ですが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

 

世の中の子供たちは夏休みに突入しましたが、大人になってからも “夏休みの宿題“ についての話題で盛り上がることって時々ありますよね。

 

中でもその取り組み方については面白いくらいに人それぞれで、うまく調整しながら毎日コツコツ型が理想だとしたら、8月31日に泣きながら家族総出でやらかすことになる人もけっこういたりして。

かく言う私は、最初の5日くらいで大物(自由研究とか…)以外を超猛スピードで終え・・・まではいいのですが、未来を予想して日記まで書き終えて親を呆然とさせるという、ある意味ヤバい子供でした。

 

当時の心理を今になって分析してみると、一分一秒でも早く心の中から宿題という“ひっかかり”を消し去り、クリアな気持ちで遊び倒したい!という熱意が、常軌を逸していたのだと思います。なので、8月の最終週まで多くの宿題を残しながらも夏休みを楽しんでいる友達の鋼のメンタルを、どこかで羨ましく思っていた気もします。笑

 

そして、夏休み宿題界の大物と言えば、いつの時代も “読書感想文” があげられるのではないでしょうか。(ChatGPTが出現した今後はわかりませんが…)

 

中学2年の時に書いた読書感想文は、私にとって今でも忘れられない特別な思いがあります。遊びがメインの小学生の夏休みから一変、お盆の3日間以外はバレーボール漬けの過酷な日々の中で何とか作成した読書感想文が、まさかの市で最優秀賞に選ばれるという、タナボタ的快挙を成し遂げたのでした。朝礼で賞状と立派な盾まで受け取り、嬉しさの反面、ちょっとした罪悪感を感じていました。

 

というのも、体力はMaxのくせして、未知なる本を最後まで読み切るという気力や忍耐力はゼロという、絶望的に読書が苦手だった私は、テレビドラマで既に内容を知り尽くしていた有名な本を選択することで、じっくり読むことから逃亡したからです。

もちろん、無念の別れが綴られたその実話に対するあふれる熱い思いを、正真正銘、自分の言葉で表現した作文にかわりはないのですが。

 

 

 

「あの子の読書感想文、昔の入選作のパクリだって」

SNSに投じられた学校代表の“読書感想文”盗作疑惑により、学校中が疑心にのみこまれ一人の教師を奈落の底に突き落とす・・・というのは、もちろん私の話の続きなどではなく、月村了衛さんの本『暗鬼夜行』です。

 

“エンタメ界の鬼才が教育現場の圧倒的リアルに迫った学園震撼サスペンス!”と銘打たれているだけあって、一人の悪意を皮切りに、中学校を巡る様々な問題があぶり出され、公立中学のブラック職場ぶりや政治的腐敗などは序の口で、嫉妬、狂気、絶望、疑心暗鬼等々、イヤミス要素が満載の作品ではありますが、ノンフィクションかと途中で錯覚するほどのリアリティさに震撼しました。

 

そして震撼といえば、こうしてブログでおすすめ本の紹介なんかしている今の私を、あの頃の自分が知ったとしたら・・・・・・・・・するだろうな。なんて思ったのでした。

 

 

人生の勝ち組について思うこと

愛知県の都会でもなくド田舎でもない住宅街に住んでいるのですが、ほんの数日前まで、朝起きると北側からはセミ、南側からはウグイスの可愛い鳴き声が聞こえてくるという、何だかシュールな音の交錯を楽しんでいました。

皆さんのブログを読んでいると、自然豊かな田舎から都会の真ん中、それに海外に住まれている方等々、あらためて本当に千差万別で、そうなると入ってくる外の音なんかも、きっと面白いくらいにちがうんだろうなぁ・・・なんてちょっと浸ってみたりして。

 

それはそうと、少し前まで “人生80年”と言われていたのが、いつの間にか“人生100年時代”なんていう、すごいことになってきましたよね。

ポジティブ思考が働けば、より長いスパンで人生設計ができることによって、愛しい人達との時間や楽しい経験をより積み重ねていくことができると考えられるし、ネガティブ思考が働いてしまうと、健康やお金や疫病や年金や仕事や世界平和…etc、もはやキリがないほどの心配事項が浮かんできてしまうわけで。

 

私自身、20歳の時点で小学校の同級生を、事故や病気で5人亡くすという悲しい経験をしたことで、本当にやりたい!と思ったことは、できる限り後回しにしないように心がけて生きてきた感があります。

 

仮に地球が今日爆発するとしたら、気になるドラマの続きが見られないとか、もう一度あの絶品うなぎを食べておきたかったとか、そういう小さな後悔や未練までゼロにするのは難しいにしても、叶わずに退場することが悔やんでも悔やみきれないレベルの、やっておきたい事や行っておきたい場所、会っておきたい人、といった案件に対しては極力その都度クリアしてきたつもりではあります。

 

とは言っても、生きていれば次から次へと欲が出てきてキリがないのも事実なわけで、未来の楽しみとしてとってあることだって・・・やっぱりあるっちゃあるなと、今気づいてしまいました。

 

 

「人生後半、無責任に生きてやる!」なんていう、人によっては怒られそうなブログの題名をつけたのも、長年働いた職場を離れたり、親を看取ったり、読書中毒になったりと、環境も思考も大きな転換期を迎えた自分への叱咤激励と、ともするとズレていきがちな“自分軸”を意識しつづけたいという思いが込められています。

 

近々父の三回忌を控えていて、思考が死生観モードに入っているからなのか 、予定していた記事の内容から大幅にズレてきた上に、ブログ名の説明までし始めた自分が怖くなってきたので 笑・・・ここは仏様に免じて、本を紹介させて下さい 。

 

2021年に99歳で亡くなった瀬戸内寂聴さんが編集長を務めた「寂庵だより」から、晩年10年分の随想をまとめた「遺す言葉」を読みました。

彼女の波乱万丈な人生はあまりにも有名で、その生き方に賛否両論あるのは承知していますが、「わが道こそ」と題して87歳の時に語られた以下の言葉を思う時、周囲がどう思おうと、こういう気持ちでこの世を去ることができる人が、人生の勝ち組なのかもしれない。などと思ったのでした。

 

この世に唯一つしかない自分だと思えば、もったいなくて、自分を粗末になんか出来ない。

 わがままという言葉は、否定的に使われてきて、子供の頃から「わがままを言うな」と叱られてきた。

 しかしつい、うかうかと八十七年も生きてきて、いつ死んでもおかしくない今になってみると、自分の生涯、わがままを通してよかったと悔いはない。

 せっかくの自分というこの世でたった一つの個性を与えられて生きてきたのだから、自分の心の声をよく聴いてやって、したいことをがむしゃらにでも押し通した方が、ああ、生きてきたという実感を味わって死んでゆけるような気がしてきた。

 今更、自分の過去の過失を列挙して、あの時、ああしておけばよかったなど思っても、もはや死も必ず遠からずやってくる今となっては後悔は追いつかない。(中略)

 どんなに用心したって、長い人生には困難辛苦の全く訪れないということはない。

 その時、自分の独自の個性を信じ、自分のゆくべき道に誇りを持って踏みだすことこそ生甲斐というものではないだろうか。

 まぁ、もし今夜死んでも、私はこう生きた自分に不満はない。

 

出典:瀬戸内寂聴 “遺す言葉「寂庵だより」2017-2008より” 

 

 

前世で何があったのか

“永遠のお別れ” 的なものに、小さい頃から異常なくらい執着している自分がいます。それこそ前世というものがあるとしたら、いったい何があって誰と別れたんだろう・・・なんて真面目に考えてしまうほど 笑

 

幼稚園の頃に読んでもらった「泣いた赤鬼」の結末に対する号泣レベルが、両親を心配させるほどだったり、好き同士なのにもう二度と会うことができないことを連想させる、映画「ローマの休日」的なエンディングも、なかなかこたえるものがありました。

 

なのでそこに死別的な要素まで含まれてくる、殺された男性が幽霊となって恋人を守る映画「ゴースト」や、幽霊を法廷に引っ張り出そうとする奮闘を描いた映画「ステキな金縛り」なんかは、ファンタジーやコメディであっても、自分でも怖いくらいに感情を揺さぶられ、涙腺が崩壊してしまうのでした。

 

思えば、失恋の意味さえわかっていなかった幼少期でも、西田敏行さんの「もしもピアノが弾けたなら」や、岡村孝子さんの「believe」を聴いてホロっとしたり、長渕剛さんの「交差点」、ボン・ジョヴィの「Always」なんかは、失恋前の思春期であっても情緒を崩壊させられたりしたわけで 笑・・・他にも魅力的な “お別れソング” がたくさん存在するのは、“別れ” というものに、多くの人が心を動かされるからなのかもしれません。

 

 

浅田次郎さんの著書「椿山課長の七日間」は、途中で以前に読んだことがあることを思い出したという、我ながらいただけないパターンだったにも関わらず、涙が止まらなくなって途中休憩をはさむという、近年では稀な経験をしました。身近な人との死別を経験する前と後では、こんなにも感度が変わるものなのかと、自分でも驚くほど、二度目の今回は強いインパクトが残った作品となりました。

 

映画やテレビドラマ、そして舞台でも上演されたようで、韓国でもテレビドラマ化されたことを考えると、超人気作というのがわかります。

 

現世と来世の中間にある中陰の世界で目が覚めた、過労死した百貨店勤務の椿山課長(46歳)が、どうしても自分の死が受け入れられず現世に戻ることを願い出て、許された初七日までの三日間を使って、美女の肉体を借りて遣り残した思いを遂げる・・・というザ・フィクションのハートフルコメディなのですが、書き手が凄いと、こうも死の世界がユーモラスかつ真剣に描かれ、それが生きていることをしっかり考えることに繋げられるものなのか…と唸らされます。

 

 

ちなみに余談ですが、実生活ではしょっちゅう涙を流している心優しい友人と、映画館で泣ける映画を観終わった直後に、

「テレビも映画もスクリーンが “枠(わく)” で囲まれているから、感情移入できないんだよね~!だからどれだけ悲しかったり感動的な内容でも全く泣けないんだよね~♪」

と爽やかな笑顔で言われたことがあります。

すすり泣きがそこら中で聞こえていた館内で放たれた衝撃の一言に、世の中には本当に色々な人がいて面白い!と実感した私なのでした。

 

手書きはやっぱり凄かった

今から45年ほど前の1978年に出版された、井上ひさし氏の「十二人の手紙」という本を読みました。12の短篇が基本的には手紙形式で構成されていて、ミステリー要素やどんでん返しなんかもあり、今も売れ続けているというのも納得の作品でした。

 

その余韻も冷めない中、最近の芸能ニュースでも “手紙” や “交換日記” といった話題で持ちきりだったこともあり、(やめときゃいいのに)自分自身のそれらの思い出について、何だか振り返ってみたくなりました。

 

早速話はズレますが、プライベートのLINEやメールのやりとりが、誰かによって日本中に拡散されるという当事者になったら、それが無機質なデジタル文字でのやりとりであっても、立ち直るのに相当時間が必要だろうと察しますが、本来なら世界に一つだけ存在するはずの、アナログの真骨頂である、恋文という名の手書きの手紙や交換日記が、不特定多数にさらされるのは想像を絶するキツさではないかと思います。

 

ところで皆さんは、最近手紙を書いていますか?

文字を書く機会さえ、意識しないと発生しないような現在の生活において、手書きで思いを綴って封筒に収め、手渡しもしくは切手を貼ってポストに投函するという行為は、もはや私の中ではかなりハードルの高いものになりつつあります。

 

ハガキやメッセージカードも何とも言えない温かみがありますが、あの何枚かの便せんが収まって膨らんだ、切手の貼られた封筒を開ける瞬間というのは、カメラのフィルムを現像に出して、写真になって戻ってきた時の封を開ける瞬間と同じくらい、ワクワク、ドキドキ、そしてゾクゾクしたものです。

 

中でも “海外文通” というロマンチックな昭和感あふれるクラブにも所属していた中学時代、初めての国際郵便がアメリカから届いた時は、踊り狂ったことを覚えています。

数年後に電子メールという文明の利器が爆発的に普及することなど、その頃の私はもちろん知る由もなく、“たった7日” でアメリカに手紙が届くようになった便利な社会に心から感謝をし、海を渡って自分の元にきてくれた尊い手紙を部屋に飾って崇めていた私・・・かわいかったと思います。笑

 

先日、過去にもらった “紙関係” を全て納めてあるパンドラ…じゃなくてお菓子の空き箱を、何十年ぶりかで開けてしまいました。開けた瞬間から漂ってくる匂いに何ともいえない哀愁を感じ、様々な筆跡やかわいい封筒の数々に強烈な懐かしさを感じました。

 

特に思春期と反抗期の見本になれそうだった時代に交わした手紙を(やめときゃいいのに)読み返してみると、忘れていた記憶が次々に蘇ってきて、自分が書き送ったであろう内容まで掘り起こされ・・・額に汗がにじんでくるのを感じました。

 

そして視界に入れないようにしていた一冊のノートを(やめときゃいいのに)とうとう手にとってしまい、最初のページを恐る恐る開いた瞬間、今度は全身から汗が噴き出してきて、自分でもよくわからない悲鳴を発しながら、一瞬で箱ごと閉じてしまいました。

 

好きだった男子と、秘密裏に交わしていた青春真っただ中の “交換日記” を、いつの日か平常心で読み返せる日がやってくるのでしょうか・・・笑

この日記が500年後くらいに発見されたら “平成の純情日記” として、 “更級日記” や “土佐日記” みたいな貴重な歴史書になるかもしれない!!

 

わけがないので、この世を去る前には何とか処理しておかなくては!と強く心に誓うとともに、 “手書きの文字が発する威力は凄いな” と、妙に納得してしまう私なのでした。

 

 

もっと早く気づけばよかった

いつでもどこでも寝られる!という人のことを、心底羨ましく思います。

というのも、大人になって電車や飛行機で熟睡したのは数えるほどしかないし、仮に一日がかりのドライブで親切にも「寝ていいよ」なんて言ってもらえても、仏像みたいな半眼で助手席に座り続けていることになります。

 

旅行中などで、特に最初の夜になかなか眠れない人のことを “センシティブ・スリーパー” と呼ぶそうですが、なんだかこの感覚に近い気がします。

これには私たちの祖先が馴染みのない環境でなかなか眠れなかったことで、捕食者をより素早く察知することができ、命が救われたという進化的な考え方もあるそうで、自分の前世に“侍”が一人、入っているような気がしている私としては、やっぱり殺気に対する神経が研ぎ澄まされているから眠れないのかな・・・などと思えてきました。笑

 

冗談はさておき…それでも数年前までは、家ではそれこそ10時間ノンストップで眠ることができたし、それに幸せを感じたりしていたわけですが、いつの間にか7時間寝られれば充分になり、それもノンストップではいつの間にかいかなくなり、3時間-2時間-2時間みたいな、細切れバージョンになってしまったことに、軽いショックを覚えました。

 

加齢や介護、それに日々の生活でどうしたって脳をフル稼働させなければいけない時期もあったりと、理由は色々あると思うのですが、私の場合、眠れないことそのものよりも、ウトウトしている時に感じるある状態の方に、よりイライラしている!ということに、ふと気づいたのでした。

 


それは「枕にイラついている」という状態で、一旦起き上がってバスタオルなんかで高さを調整してみたりしても、首や肩がどうもしっくりこない感覚にイライラしてしまい、さらに眠れなくなるという負のスパイラル。

 

昨今の安眠ブームはけっこうきてますし、寝具とこれまで真剣に向き合ったことがある人にとっては、枕の重要性なんて当たり前すぎてお話にならないのでしょうが、私の場合はどこかで諦めの境地というか、真剣に自分事として考える!ということをしてこなかったのでした。

 

というのも、意識があるときの100%を横向きで寝ている身としては、とにかく硬くて高さのある枕が理想なのですが、量販店へ行ってみたり、ネットで軽く検索をしたりすると、それが仰向けメインの標準的な枕とは、かけ離れていることを嫌でも自覚させられたからです。

 

なので「横向き寝」という当たり前すぎる検索ワードを、突如としてひらめいたことで、諦めていた理想の “横向き寝枕” という代物を手に入れることができ、長年の枕問題があっという間に解決された時は、何だかキツネにつままれたような気分でした。

それ以来、仮に寝つきが悪い夜があっても、その快適な寝心地にニヤニヤしながら寝返りを打つほどまでに幸福度が上がりました。笑

 

ちなみに、科捜研の沢口靖子さんも長いこと自分に合った枕に巡りあえず、玄関マットとバスタオルで調節したお手製枕によって安眠を手に入れたそうですし、テレビの企画でオーダーメイドの枕を作ってもらっていた50代くらいの男性タレントが、一ヶ月もしないうちに合わない気がしてきて、今は別の枕を使っている…と言っていたのを見て、理想の枕との出会いの難しさを感じるとともに、私の枕との出会いは、決して遅すぎたわけではないのだと思うようになりました。

 

けれどやっぱり、“横向き寝” というシンプルなワードなだけに、もっと早く気づけばよかった!と思わずにはいられないという、諦めの悪い私なのでした。

 

違和感の正体は何なのか?

例えば海外に一人で降り立った時、尋常じゃないレベルで周囲に対する “嗅覚のアンテナ” みたいなものをフル稼働させている “鋭敏な私” が現れるのですが、そんな必死な自分が嫌いじゃなかったりします。笑

 

それは複雑な人間関係で成り立つ日本にいても、きっと無意識に起動しているアンテナだと思うのですが、目や肌の色、漂ってくる匂いやリアクション、加えて文化も異なる人たちの、言わば善悪を、時に一瞬で判断しなければならない状況というのは、もう直感力と運が勝負の、究極のギャンブルのようでさえあります。

 

第一印象は3秒で決まる!

なんて言われますが、清潔感も笑顔もばっちりで、会話のセンスまで申し分ない、一見好印象しか抱けないはずなのに、なぜか違和感がある・・・みたいな直感的な感覚は、絶対に無視しないようにしようと私自身、肝に銘じています。その人が人気者だったり、自分の周囲が慕っていたりすると、一瞬ひるがえりそうになるのが厄介なのですが、それで痛い目にあって以来、違和感を感じた自分の方を信じるようになりました。

 

私の中では経験値、眼力ともに100点満点にも思える作家の五木寛之さんでさえ、初対面で直感的に付き合わない方がいいと思ったにもかかわらず、紹介者がその華々しい経歴や性格をべた褒めしたりすると、それが気のせいに思えてきて付き合ってしまい、その場合、結局は良くない形で決別することになる・・・というような経験を何度かされていることを知り、いかにその違和感の正体が、人を惑わせる厄介なものなのか、考えさせられます。

 

とはいえ、拒めない人間関係も世の中には沢山あるわけで、せめて自分で選択できる人間関係の部分だけでも、その違和感を無視しないことで、悲劇をほんの少しでも減らすことができるのではないかと思っています。

 

 

こういった違和感が、後に生死を分けるレベルにまで及ぶのが、貴志祐介さんのサイコホラー小説である「悪の教典」です。伊藤英明さん主演で映画化もされた人気作のようですが、完読できるか不安にさせるレベルの厚めの上下巻を、寝食を忘れそうな勢いで読んでしまいました。

 

生徒や保護者たちから絶大な人気を誇る高校教師が、実は生まれながらのサイコキラーという裏の顔を持っており、最終的には担任を持つクラスの生徒全員を殺しにかかるという、フィクションならではの内容なのですが、とにかく本を閉じるタイミングがわからなくなるので、時間がたっぷりある時に読むのをお勧めします!

 

中でも直感が鋭く、他者の悪意や本性を読み取る稀有な能力を持つ、ある女生徒の顛末が印象的で、私たちがリアルな日常生活で感じる、そのちょっとした違和感の大切さを実感せずにはいられなくなる作品なのでした。

 

 

できれば “ご機嫌な人” でいたい

毎日毎日、次から次へと入ってくる新しい情報の大部分が素通りしていくなかで、脳内に留まって事あるごとに存在感を見せつけてくるフレーズがあります。

 

『 自分の機嫌は自分でとる 』

 

この言葉を思う時、なぜか大好きな街であるカナダのバンクーバーを思い出してしまいます。いいとこ取りの観光ではなく、1年近く “生活した” にも関わらず、とにかく会う人会う人、すれ違う人すれ違う人、そのほとんどが “ご機嫌な人たち” だったからです。

 

連日の残業で疲弊しまくっていた、カナダへ渡る直前の当時の私からすると、大人でも平日の5時頃にはフリーとなり、ジップロックに入れた豪快なサンドイッチを持参して、近所の公園や海辺なんかでピクニックをしたり、夕食後もたっぷりある自由時間を使って、ポップコーン片手に自宅で映画鑑賞をしたり・・・といった、平日だろうと毎日を当然のように楽しみ、そしてぐっすり眠る人たちの姿は、衝撃でした。

 

歩行者に優しすぎる車の運転は、警察なんか不要に思えたし、タトゥーとピアスだらけのお兄ちゃんたちが、体の不自由な人がバスに乗ってきた瞬間に、一斉に座席を譲って車いすを手伝い、何事もなかったかのように散っていく姿は、今ならフラッシュボムと見間違えるくらいさりげなかったり。

 

極め付きは、クラスメートの男子と道端で立ち話をしていた時、その彼がふざけて私の脚を蹴るマネの動作をしただけで、通りすがりの数人の男女が、一瞬で駆け寄ってきてその男子を羽交い絞めにし、私には「Are you OK?」と心配そうに声をかけてくれたことも。

 

もうここまでくると、その国民性に恋をしてしまいます。笑

 

それが医療費や老後の心配をしないで暮らせる福祉からくるものなのか、規格外の大自然の恵みが人々に平和と余裕を与えるのか、そもそもDNAの問題なのか・・・私にはわかりませんが、圧倒的多数を占める “ご機嫌な人たち” が生み出す相乗効果に包まれた日常生活は、まるでユートピアのように映ったのでした。

 


先日図書館で、本屋大賞にノミネートされた本ばかりを集めた棚が設置されていたのですが、初めて目にした青山美智子さんの「ただいま神様当番」は、我ながら大正解のチョイスでした。

 

幸せになる順番を待っている…みたいな、日々の生活にうんざりしている5人の老若男女が、ある日突然 “神様当番” なる文字が腕に書かれているのを発見し、その文字を消すために、何とか神様を喜ばせて願いを叶えてあげようと振り回されているうちに、いつのまにか事態が好転し・・・という笑って泣けるファンタジー要素もある小説です。

 

これだけを聞くと、よくありそうで想像がつくお話だと思いがちなのですが、5人の日々のうんざり感のリアリティさが半端なかったり、そこから派生する行動や思い癖みたいなものが、いかに自分を日々楽しませることから遠ざけているか・・・みたいなニュアンスの描き方が絶妙で、想像を遥かに超えてくるものでした。

 

さらには神様の定義が・・・これ以上はネタバレになりそうなので、ここはぐっと我慢しますが、これまた絶妙で唸らされます。

 

そして思うのでした。

やっぱり “ご機嫌な人” でいたい! と。