人生の勝ち組について思うこと

愛知県の都会でもなくド田舎でもない住宅街に住んでいるのですが、ほんの数日前まで、朝起きると北側からはセミ、南側からはウグイスの可愛い鳴き声が聞こえてくるという、何だかシュールな音の交錯を楽しんでいました。

皆さんのブログを読んでいると、自然豊かな田舎から都会の真ん中、それに海外に住まれている方等々、あらためて本当に千差万別で、そうなると入ってくる外の音なんかも、きっと面白いくらいにちがうんだろうなぁ・・・なんてちょっと浸ってみたりして。

 

それはそうと、少し前まで “人生80年”と言われていたのが、いつの間にか“人生100年時代”なんていう、すごいことになってきましたよね。

ポジティブ思考が働けば、より長いスパンで人生設計ができることによって、愛しい人達との時間や楽しい経験をより積み重ねていくことができると考えられるし、ネガティブ思考が働いてしまうと、健康やお金や疫病や年金や仕事や世界平和…etc、もはやキリがないほどの心配事項が浮かんできてしまうわけで。

 

私自身、20歳の時点で小学校の同級生を、事故や病気で5人亡くすという悲しい経験をしたことで、本当にやりたい!と思ったことは、できる限り後回しにしないように心がけて生きてきた感があります。

 

仮に地球が今日爆発するとしたら、気になるドラマの続きが見られないとか、もう一度あの絶品うなぎを食べておきたかったとか、そういう小さな後悔や未練までゼロにするのは難しいにしても、叶わずに退場することが悔やんでも悔やみきれないレベルの、やっておきたい事や行っておきたい場所、会っておきたい人、といった案件に対しては極力その都度クリアしてきたつもりではあります。

 

とは言っても、生きていれば次から次へと欲が出てきてキリがないのも事実なわけで、未来の楽しみとしてとってあることだって・・・やっぱりあるっちゃあるなと、今気づいてしまいました。

 

 

「人生後半、無責任に生きてやる!」なんていう、人によっては怒られそうなブログの題名をつけたのも、長年働いた職場を離れたり、親を看取ったり、読書中毒になったりと、環境も思考も大きな転換期を迎えた自分への叱咤激励と、ともするとズレていきがちな“自分軸”を意識しつづけたいという思いが込められています。

 

近々父の三回忌を控えていて、思考が死生観モードに入っているからなのか 、予定していた記事の内容から大幅にズレてきた上に、ブログ名の説明までし始めた自分が怖くなってきたので 笑・・・ここは仏様に免じて、本を紹介させて下さい 。

 

2021年に99歳で亡くなった瀬戸内寂聴さんが編集長を務めた「寂庵だより」から、晩年10年分の随想をまとめた「遺す言葉」を読みました。

彼女の波乱万丈な人生はあまりにも有名で、その生き方に賛否両論あるのは承知していますが、「わが道こそ」と題して87歳の時に語られた以下の言葉を思う時、周囲がどう思おうと、こういう気持ちでこの世を去ることができる人が、人生の勝ち組なのかもしれない。などと思ったのでした。

 

この世に唯一つしかない自分だと思えば、もったいなくて、自分を粗末になんか出来ない。

 わがままという言葉は、否定的に使われてきて、子供の頃から「わがままを言うな」と叱られてきた。

 しかしつい、うかうかと八十七年も生きてきて、いつ死んでもおかしくない今になってみると、自分の生涯、わがままを通してよかったと悔いはない。

 せっかくの自分というこの世でたった一つの個性を与えられて生きてきたのだから、自分の心の声をよく聴いてやって、したいことをがむしゃらにでも押し通した方が、ああ、生きてきたという実感を味わって死んでゆけるような気がしてきた。

 今更、自分の過去の過失を列挙して、あの時、ああしておけばよかったなど思っても、もはや死も必ず遠からずやってくる今となっては後悔は追いつかない。(中略)

 どんなに用心したって、長い人生には困難辛苦の全く訪れないということはない。

 その時、自分の独自の個性を信じ、自分のゆくべき道に誇りを持って踏みだすことこそ生甲斐というものではないだろうか。

 まぁ、もし今夜死んでも、私はこう生きた自分に不満はない。

 

出典:瀬戸内寂聴 “遺す言葉「寂庵だより」2017-2008より”