イライラを筋肉に変える

スペインには『幸福に暮らすことが最高の復讐である』ということわざがあるそうですが、誰かにひどい仕打ちをされた場合はもちろん、日々のちょっとしたイライラやムカツキであっても、それを溜めこんだせいで病気になったり、または変な方向で発散して人生が破綻に向かう・・・なんて理不尽すぎて、絶対いやだ!と思ってしまいます。

 

父が亡くなり、私自身も日々の生活を立て直すのにいっぱいいっぱいだった頃、恐らくそれ以上の喪失感でいっぱいだった、母からの理不尽な言動の数々に何度かやられかけました。身震いするほど腹が立つとはこういうことか・・・なんて感動すら覚えたものの、この心身の閉塞感みたいなものを何とかしないと、あたしゃ何をしでかすかわからんな…との焦燥感から、真剣に打開策を考えました。

 

とはいえ相手の性格や考え方を変えることはできないし、かといって自分が悪いともやっぱり思えない。けれど、いつかは必ず誰とも別れが来るのに、恨んだり憎んだりするのも時間がもったいない・・・今後同じシチュエーションになっても、おかげ様で…なんて相手に感謝の念すら芽生えるような奇策はないだろうか?

 

『イライラを筋肉に変える』

 

それはイラっとするたびに腕立て伏せをする!というもので、久々にやる腕立ては5回でもプルプルし、腕の痛みと筋力の低下を実感するショックで一瞬にしてさっきのイライラなんか消し去ってくれる、という自分ショック療法。

 

こうしてイライラムカムカのたびに腕立てをやり続けること約一年。筋肉は裏切らないとはよく言ったもので、軽く20回はできるようになった頃からでしょうか・・イライラの回数が劇的に減ったことにより、幸か不幸か意識的にやらないと保てなくなってしまいました。

 

ということで現在は比較的平和な日々が戻りつつあるわけですが、イライラのピーク時は腕立てだけでは到底おさまらず、やっぱり “ヒトカラ” が大きな役割を果たしてくれました。おかげで長渕剛さんの“泣いてチンピラ”を5回連続歌って、憑き物が落ちた顔で帰宅することができたし、5時間歌い続けても絶好調な喉の筋肉をも手に入れることができました。笑

 

読み返すと色々な意味で恥ずかしいのですが、以前から気分のリフレッシュに絶大な効果をもたらせてくれていたヒトカラに、命を救われたと言っても過言ではありません。

rubyleo.hatenablog.com

 

そして言ってやりたいのでした。

 

天国の父よ!

平気な顔を装いながらも、あなたを絶対に倒れさせないようにサロンパスだらけだった頼りなかった私の腕は、今では10キロの米を5キロと錯覚するほどに逞しくなったぞ‼

私が歌う長渕が大好きだったあなたと一緒に行った、最後のカラオケの日からまた一段と上手くなってしまったぞ‼

それもこれもあなたの大好きだった妻のおかげ。

 

もうすぐ父が旅立って2回目の夏がやってくる。

だめだ。やっぱり泣けてくる。

情熱は文明の利器に並ぶ?

過去に聴いた記憶すらないようなメロディのワンフレーズが、なぜか頭の中で流れ続け、それが何の曲なのか確かめる術が見つからないというもどかしさ!

グーグル検索のマイクという、それまで見向きもしてこなかったマークを初タップし、“ラ~ララララララ~♪” などと、藁にもすがる思いで歌ってみたところ、あっという間に一件落着したことがあります。

 

鼻歌検索とか、ハミングで歌って調べるというのは常識になりつつあるようですが、当時の私はそんなことは知る由もなく、ヒントになる“文字”がないと、天下のグーグル検索も使えないという先入観を崩してくれるきっかけになりました。

 

ただその曲が、なぜか見たこともないセサミストリートで使われていた音楽だった!ということや、後日同じように何度検索をしてみても、大黒摩季さんの“ら・ら・ら”を筆頭に、知らない曲しか出てこなくなってしまったのはなぜか?という新たなミステリーは、今日のところは置いておくことにします…。

 

 

そしてこの快挙を思うたびにセットで呼び起こされるのが、ネットという文明の利器がまだなかった高校時代の淡い恋・・・いやちょっと狂気の物語です。笑

 

大学入学と引越しを控えた憧れの先輩との、最初で最後のデートでのことです。デートといっても喫茶店でお茶をしただけなのですが、緊張と嬉しさで鼻血が出そうなレベルの女心を知ってか知らずか、先輩は突然しれっと立ち上がってお店の端へと歩いていきました。トイレかな?なんて思った次の瞬間、とある洋楽曲のミュージックビデオが、お店のいたる所に設置されていたスクリーンで一斉に流れ始めたのでした。

 

その日を境に、長渕剛米米CLUBとWANDSで半分占められていた私の音楽史に、洋楽という新たなジャンルが加わり、その後の人生でどっぷりとはまっていくきっかけになりました。

そしてたとえ気まぐれであっても、憧れの人が100円を払って流してくれた、記念すべきあの素敵な曲を、何としても手に入れてもう一度聴きたい!という並々ならぬ衝動に駆られてしまったのでした。

 

 

とはいえ、ド緊張で臨んだ初めてのデートで、バンド名も曲名も尋ねることができなかった、たった一回だけ聴いた曲(しかも英語)をどうやって探し出す・・・!?

 

執念…じゃなくて恋の力というのは時に奇跡を引き起こします。笑

 

翌日、CDショップのお兄さんはさぞかし怖かったと思います。目を血走らせた高校生がやってきて「にゃにゃにゃにゃ~にゃ~にゃ~にゃ~にゃにゃ~♪ みたいな感じの洋楽曲、知りませんか?」 などと、無茶ぶりをしてきたわけですから。

 

かろうじて頭に残っていたサビのほんのワンフレーズを、猫派でもないのになぜか “にゃ” で歌った私を嘲笑うどころか、洋楽コーナーにある無数のCDの中から、さらっと一枚を選び出し、“たぶんこれに入っている、To Be With You という曲だと思うよ” と、MR.BIGというバンドのアルバムを差し出してくれたのでした。

 

冷静に思い返すと何がすごいって、恋の力でも、もちろん私の歌唱力でもなくて(笑)、未来のグーグル検索に匹敵する、そしてNHKのプロフェッショナルにも推薦したくなるような、あの店員さんの能力!

偶然知っていた有名な曲だったのかもしれませんが、あの日あの人に対応してもらえなかったら、私の楽しい洋楽人生が大幅にズレていたと思うと、けっこう重要な出来事だったのではないか…なぁんて、今でも一軍として大切に保管しているそのCDを眺めながら思ったのでした。

 

ちなみに余談ですが、同じ頃、テスト期間になると金縛りにあうのが怖すぎて、それについて図書館で調べまくり、“体は寝ているのに脳が起きている 睡眠麻痺の状態である” ということを半日かけてつきとめた記憶があります。今ならスマホ片手に「金縛り、霊は見えない、テスト期間」とでも入力すれば、ほんの数分で解決できることを思うと、ちょっと恨めしくもあるわけですが・・・。

 

「現代人が一日にふれる情報量は、平安時代の一生分」

という衝撃のニュースがありましたが、私にとっては “平成のあの頃くらいがちょうどよかったのかなぁ…”などと、ちょっとノスタルジックな気持ちになるのでした。

 

 

やっぱりプレーンが好き!

食べることが大好きです。そして自慢じゃありませんが、好き嫌いがないので、何でも美味しくいただける選手権があったら、けっこう上位に食い込めるのではないかとさえ思っています。

 

カステラ、かりんとううなぎパイ

お土産で頂けたら小躍りするほどテンションが上がる、私の中でここ数年の銘菓トップ3なのですが、小躍りから控えめな拍手に変更せざるを得ない残念な事件が、立て続けに起こってしまいました。

 

長崎に行ったから、本場のカステラ買ってきたよ~!

と、差し出されたのは・・・・・チーズ味。

観光地に美味しそうなかりんとうがあったよ~!

と、ドヤ顔で買ってきてくれたのは・・・・・桜味。

浜名湖といったらうなぎパイでしょ~!

今度こそ勝利を確信した私の前に置かれたのは・・・クラッシュナッツ入。

 

 

はい、わかっているのです。これらがどれだけお洒落で、もちろん美味しくて、おまけにちょっと高かったりもすることを。

 

期間限定〇〇味!の商品がすぐに売り切れたり、味変(あじへん)という行為が当然になりつつある世の中を考えると、昔ながらのプレーンのカステラ、黒糖味のかりんとう、ノーマルなうなぎパイ、という方に小躍りしてしまうことが今の時代、恐らく少数派であるということを。笑

 

新しい感覚自体に決して抵抗があるわけじゃないのに、なぜか食べ物に関しては特に、素材の味とかプレーン的なものの方により美味しさや、もっと言えば贅沢な味わいさえ感じてしまうのが、自分でも不思議です。

 

なので、炊き立てのふっくらご飯の上に、何かをのっけようとしている人を見ると、うそだぁ~と心の声が出てしまったり、近所で評判のパン屋の食パンや、プレーンの素朴な味が大好きだったカレー屋のナンまでも、最近なんだか甘くなってきていることに、(訪れたこともない大阪弁で)なんでやねん!と、悲しい独り言を発してしまうくらい追いつめられているわけですが・・・これって、例えば日本車のモデルチェンジの早さとか、テレビ番組のセットとかテーマソングが、慣れた頃に一変すること等々…にも通じるのでしょうか!?

ちなみにモデルチェンジと言えば、私しか知りませんが “黒いパンプス事件” が有名です。

 

自分の足に合う靴、特にヒールのあるパンプスとの相性というのは、値段が高ければ良いという単純なものでもなく、かなりやっかいなものです。

 

以前の職場で黒いパンプスが必須だったこともあり、ありとあらゆるタイプにチャレンジすること数年、血だらけになったり、激痛に耐えたりと紆余曲折を経て、とうとう運命的な出会いが訪れます。

 

それはとあるショッピングセンターのオリジナルブランドとして売られていた、いたってシンプルなパンプスだったのですが、足を入れた瞬間、シンデレラってこんな気持ちだったのか・・・と確信するほどのフィット感でした。

 

とうとう見つけた100点満点のパンプスを、何度も何度も買い替えては履き続けること10年余、既に平和ボケの域に達していた私は、まさかこのパンプスがモデルチェンジという名の下、消えてなくなってしまうことなど、一ミリも頭にありませんでした。

 

この想定外のモデルチェンジ後は、先代がシンデレラだったのが嘘みたいな違和感しかない別物に変わってしまったことで、せっかく手に入れた安寧の日々が再び脅かされ、黒いパンプス探しの旅が意に反して再開されて現在に至ります。

 

ちなみに姉は、半世紀近くを生きてきて一度も出会ったことがないという、100点満点の黒い靴を未だにずっと探し続けています。そして私がそれを “幻の黒い靴”と密かに呼んでいることを知りません。笑

 

 

続・人生を変えた帯状疱疹物語

“ 泣きっ面に蜂 ”

“ 弱り目に祟り目 ”

“ 一難去ってまた一難 ”

“ 傷口に塩を塗る ”

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  ・

不幸や不運な上に、さらに辛いことが加わることを例えた日本語は色々ありますが、私の場合、帯状疱疹を患ったことが、これらの意味を痛感させられる大きな経験になりました。

 

前回の記事で、大学4年生で患った帯状疱疹が悪化して大変な目にあったものの、何とか回復することができたお話をさせて頂いたのですが、自らの無知さ加減はともかく、あれだけでもすでに、様々な不運や不幸が降ってきた感が半端なかったわけですが、先のようなことわざが昔から複数あることを考えると、それで終わらないのが “世の常” なのかもしれません。

 

 

前回の記事で登場した、俳優の余貴美子さんのようなインパクトのある皮膚科の先生のおかげで、帯状疱疹からは何とか立ち直ったものの、顔面の水疱跡もまだ生々しく、回復度40%くらいのかわいそうな状態の体に、今度は得体のしれない皮膚湿疹が、顔だけではなく、手足の指や脚にまででき始め、おまけに猛烈な痒みまで追加されました。帯状疱疹で落ちた心身の状態が、さらにもう一段落ちた感覚を味わいました。

 

「痛み」と「かゆみ」のどちらかを取らなくてはいけない・・・という究極の選択を空想する時、「痛み」の方を選択しようと決意したのはこの時からだと思います。笑

 

結局、皮膚湿疹の方は免疫力の急激な低下が招いた体の更なる悲鳴ということで、22歳という若さで生活習慣の指導を受けながら(笑)、数年をかけて克服していくことになります。

 

健康的な食事や習慣がどれだけ大切なのか、という今となっては当然のことを、毎回論理的に熱弁してくれた先生のおかげか、“本来の身体の状態=標準軸 みたいなものが、本当はどれだけ心地良いものなのか。逆にいつの間にかその軸がズレて、それが自分の標準になってしまっていることが、どれだけ怖いことなのか” ということを、時々立ち止まって考えるクセがついたことで、30代をかなり健やかに過ごすことができたのではないかと思っています。

 

と、ここまでが一難去ってまた一難…だったわけですが、皆さんの期待は裏切りませんよ。この一連のお話には、もう一難がやってきます。笑

 

それは残り少ない大学生活を、このまま療養だけで終わってたまるか!という強い焦りから、バイトで貯めたなけなしの20万円で、卒業旅行という名のスペイン旅行を強行してしまったことで起こりました。

真冬のスペインに到着した瞬間、まだまだ底辺レベルの免疫力の弱った体が、案の定、またキャッチしてしまったのです。今度はインフルらしき菌を。

ツアーの都合上、まともに寝かせてもらえず、高熱と疲労のピークを迎えた私は、あの有名なプラド美術館で湿疹、じゃなくて失神して、医務室に運ばれるという大失態をおかしました。ちなみに情熱の国スペインの記憶は、これ以外にほとんど残っていません。

 

まぁこれは今考えると自業自得どころか、周囲に多大な迷惑までかけて申し訳ない思いで一杯なのですが、当時は、帰国して悲劇のヒロインぶりをあげたのは言うまでもありません。心の健康軸までも、ズレズレでした。笑

 

ちなみにこの何年後かに、細木数子さんの六星占術が日本中に大ブームを巻き起こすわけですが、この何をやってもうまくいかない感が大殺界というものなのかな・・・などとふっと思い、ある時調べてみたところ、この年は何をやってもうまくいくという、“達成” であることがわかりました。

 

まぁでも前半は何だかんだで内定もらえたし、帯状疱疹騒動のおかげで身体と本気で向き合うきっかけをもらったという意味では・・・達成した年だったということになるのか?などと、なぜか占いに寄せる心理が働いてしまう、自分でもよくわからない私なのでした。

 

人生を変えた帯状疱疹物語

最近やたらと「帯状疱疹の患者が増加している」というニュースを目にする気がします。

ご存じの方も多いと思いますが、帯状疱疹(たいじょうほうしん)というのは、水ぼうそうと同じウィルスが原因の皮膚の病気です。子どもの頃に水ぼうそうを発症して治った後の体の中に、その後もずっとウィルスは潜んでおり、普段は免疫によって活動が抑えられているこのウィルスが、加齢や病気、ストレス等で免疫力が低下すると、再び活動を活発化させて増殖し、今度は帯状疱疹として発症してしまうというメカニズムだとか。

 

著名人が罹患して、神経痛のような後遺症で長年苦しんでいるというニュースや、数年前からは50歳以上を対象にした帯状疱疹ワクチンの接種を呼びかけるポスターやコマーシャルなんかもあったり、そして最近ではコロナとの関連もささやかれたりと、多くの方が身近に感じている病気かもしれません。

 

早期に発見して薬を処方されれば、発症した部位により痛みの違いはあるものの、人によっては学校や職場に通いながら治せるようですが、私の場合、この帯状疱疹を罹患したことが、後の人生に大きな影響を与える大事件となりました。

 

遡ること20年以上…3年半を過ごした一人暮らし先を引き払って実家に戻っていた大学4年生の私は、ある日電車へ乗り込んだ瞬間、右後頭部に“ピキっ”と電気が走ったような激痛を、一瞬感じたような気がしました。

とはいえ、就活も卒論も何とか乗り切り、残り半年をきった大学生活最後の正真正銘の自由時間を、どうやって楽しむかという解放感で浮かれに浮かれていたこともあり、首筋をちがえたくらいにしか思っていませんでした。

 

そして夜になり右首や顎の下に、不気味な水ぶくれが3個ほどできているのを発見し、右後頭部がけっこうな頻度でズキズキ痛み始めていても、何かのアレルギー反応と新種の片頭痛か?くらいのお気楽ぶりで、まだ事態の重さに気づいていなかったのです。

 

そして翌日、水ぶくれが右顔面に明らかに広がっている上、髪の毛で見えないだけで右頭皮にまで点在しているような・・・おまけに首も顔も頭も、右側が激痛で意識が度々遠のくレベルに達し、さらには高熱まで出てくる始末。

 

ちなみに当時はネット検索が世間に広がりつつあったものの、まだ我が家にはパソコンはなく、家族の誰もが“帯状疱疹”という単語さえ知らなかった上に、両親の病院嫌いは恐らく日本で17位くらいだった、ということを頭に入れておいて下さい。それから帯状疱疹は時間との勝負だということも。

 

両親は家にあった “家庭の医学” という古文書みたいな本から、姉は本屋で調べまくって厳選した本から、偶然にも「タイジョウホウシンという病気ではないのか??」と1日かけて後の正解となる結論を導き出してくれたものの、時すでに遅し・・・というのも、よりにもよって世間は楽しい(=病院が閉まる)3連休へと突入した直後で、皮膚科どころか休日夜間診療という、嫌な予感しかしない選択肢しか既に残されていなかったのです。

 

 

『 風邪ですね 』

高熱とナイフで刺され続けているような激痛で目の焦点も定まらず、水疱だらけのただれた顔面の私に向かって、その男はこう吐きすて、家族が必死で訴えたタイジョウホウシン説も鼻で笑って否定したのでした。今思い返しても、あの人は白衣を着たコスプレイヤーだったのではないかと、本気で思っています。

 

病名がわからない(風邪でない事だけはわかる)という状態が、人にどれだけ不安と絶望を与え、生きる気力さえ奪うのか・・・ということを人生で初めて実感したのが、この日の帰りの車中だった気がします。それと両親の病院嫌いがより加速したのも。笑

 

寝られず(痛みと水疱がつぶれるので横になれない)、食べられない(顔中溢れかえった水疱と痛みで口が開けられない)、という悪化の一途をたどる絶望という名の3連休を何とか生き延び、やっと、やっと皮膚科にかかれる日を迎えました。

 

最後の力をふりしぼってクリニックの受付をすませた私は、周囲が目のやり場に困る顔面の状態にまで悪化していたため、特別にリネン室のようなところで待つことになりました。

 

数分後、医療ドラマで主役を張れそうな、余貴美子さんを思わせるその人が颯爽と現れたと思ったら、私を見た瞬間に、

帯状疱疹です。もう飲み薬のレベルではないので、高いですが点滴をおすすめします。とはいえそこまで進んでいると、薬の効きが間に合わなかった場合は、右目の視力と右耳の聴力を失うのを覚悟してください」

と、これまたドラマのセリフのようなことを言われたのでした。この余先生が、その後の私の人生に大きく影響を与えることになる・・・ということを、まだこの時の私は知りません。笑

 

ベットで高額な点滴と水疱の治療を受けながら、病名が判明して治療をしている喜びにひたる一方で、右目と右耳の機能を失った場合は内定を辞退しないといけないのかな、などと、真剣に人生の軌道修正についても考えていた記憶があります。隣りで号泣していた母親も、複雑な涙だったのかもしれません。

 

こうして数時間後、明らかに薬が効いているのを自覚できた私は、何とかギリギリのところで生還できたわけですが、ギリギリといえば、水疱は目尻ギリギリの場所で、耳にいたっても奥に入りかけたギリギリの場所で、ギリギリ間一髪止まってくれたのは奇跡的でした。

 

その後も順調に回復し、心配された後遺症もほとんどなく、顔面の水疱跡も数年ですっかり消失して、今ではその痕跡はどこにもなくなったわけですが、帯状疱疹という言葉を耳にするたびに、あの時の強烈な痛みと恐怖を思い出すとともに、自分の免疫力と対話をするようになりました。

 

ちなみにこの帯状疱疹が引き金となり、新たな疾患を引き起こして負のスパイラルに入った話については、長くなりすぎたのでまたの機会にできればと思います。

 

ということで、心当たりのない皮膚の痛みや水ぶくれを、体のどこかに自覚したら、どうかこの言葉を思い出して下さい。

 

『 そうだ皮膚科、行こう。』

 

 

「言葉にできない、そんな夜。」にはまってしまった

皆さんは、自らを振り返って

“あぁ、人は変わるもんだ・・・” なんて思うこと、ありませんか?

私の場合、その一つが「Eテレの国語番組を観るようになったこと」です。

 

ご存じの通り、EテレとはNHKの教育テレビのことです。昨今のテレビ離れに加えて、もともと地味なイメージさえあるチャンネルなだけに、既にこの記事を読む意欲までなくされているかもしれないところ、本当に心苦しいのですが、ここで私のEテレ視聴歴をざっくり振り返らせてください。笑

 

幼少期:“おかあさんといっしょ”  “たんけんぼくのまち” 

思春期:海外ドラマ “フルハウス

青年期:英語関連を少々

 

恐らくもっと見ていた気もするのですが、記憶にあるのはこんな具合です。テレビ全盛期の頃は民放の番組の方にどっぷりとはまっていた身としては、NHKの、それもEテレの国語に関する番組話を、皆さんにしたくなる日が来るなんて・・・人は変わるものです。

語学、料理、育児、ガーデニング、健康、囲碁将棋、手芸、スポーツ、ドキュメンタリー等々、多岐にわたる分野の番組がある中で、見逃さないように録画予約までしているのが、毎週火曜日の夜10:45~放送している

『言葉にできない、そんな夜。』

 

「この気持ち、何ていう?」

「言葉にできないその気持ち、こよい言葉にしてみませんか?」

をキーフレーズに、日常生活で誰もが感じる、言葉にするのが難しい複雑な感情について、スピードワゴン小沢さんの絶妙なMCのもと、毎回4名のゲスト(作家・ミュージシャン・俳優・アイドル)とともに、ぴったりとはまる言葉の表現を探していく・・という“新感覚国語エンターテインメント番組” です。

 

ちょうど1年前に放送していた、第1シーズンの4~6回目に、作家の朝井リョウさんが出演されるのを知って見始めたのがきっかけで、ドハマリしたのですが、半年で終了してしまい気落ちしていたところ、今年も4月から第2シーズンとして始まったことで、すでに火曜の夜が楽しみになりつつあります。

 

「寝落ちする直前の気持ち」とか「久しぶりに帰省して実家のにおいをかいだときの気持ち」みたいなお題に対して、自分でも考えつつ、ゲストの皆さんの感性豊かな回答を見るのが楽しみなのですが、その中でも作家はもちろん、作詞を手掛けるミュージシャンの方々の言葉選びや表現力には、毎回 “ほぉ~!!” と声に出して唸ってしまうほど、魅せられるものがあります。

 

私自身、事あるごとに “うまく言葉では言えないんだけど・・・” なんていうのが口癖になりつつあった時期もあり、それが複雑な感情であればあるほど、言葉で表現することを最初から諦めたり、逃げていた気がしないでもないのですが、それらを宝物のような言葉でぴったりと表現してしまう人を見てしまうと、痛いところを突かれたような気がして、少しですが意識が変わってくるのを感じます。

 

なぁんて熱い思いを、身近な誰かと直接話したいと思って周囲に伝えてはみたものの・・・何せEテレを視聴している人が、なかなか見つからないという厳しい現実にぶち当たりました。笑

 

ということで、この番組をご存じの方、いらっしゃいませんか?

 

“生きるヒント”はたくさんある

4月12日の中日新聞第一面に「戦場の現実 詠む防人」と題して、ウクライナ軍大尉の男性が戦場で詠んだという、ウクライナ語の俳句が掲載されていました。

男性は各地を転戦する極限状態の中で、自ら撮った写真から着想を得て詠んでいるとかで、「戦友や自分自身の死を恐れる中、俳句を詠むことが苦しみのはけ口」と語ったそうですが、この記事を読んで、作家の五木寛之さんの言葉を思い出さずにはいられませんでした。

 

 

私自身、これまで幾度となく五木さんの紡ぎだす言葉の数々に救われてきたわけですが、数あるエッセイ本の中で必ずといっていいほど、V・Eフランクル著「夜と霧」を読んだ時の衝撃と感動について触れていらっしゃいます。

 

アウシュビッツの収容所から生還したフランクル氏が語る、極限状態を生きのびた人たちというのが、屈強な肉体を持った人や強い信仰を持った人…等の想像しがちな人たちだけではなく、むしろ小さな美に感動するとか、風景にみとれる、音楽に心惹かれる…といった人のほうが生きのびる可能性が高かった・・・という体験談を読んで、五木さんご自身の “人間に生きる力を与えてくれるもの” についての考えかたが、次のように変わったと語っていらっしゃいます。

それは大きな偉大なもの、立派な輝かしいものであると同時に、私たちが日常どうでもいいことのように思っている小さなこと、たとえば自然に感動するとか夕日の美しさにみとれるとか、あの歌はなつかしいなといってそのメロディーを口ずさむとか、私たちが日常、趣味としてやっているようなこと、あるいは生活のアクセサリーのようなことが、じつは人間を強く支えてくれる。そういうこともありうるんだなと思わせられる(中略)

 たとえば、俳句を作るということは、いやでも周りの自然とか風景などを見る目や感覚が鋭くなってきます。そういう収容所のなかで、もしも俳句を作るという習慣を持ちつづけている人がいたら、その人はひょっとしたら、他の人よりも生きのびる力が少しだけ強いかもしれない。あるいは音楽が好きで、疲れきっていても口笛で何かのメロディーを吹くような人。また歌うことが好きな人のほうが、ひょっとしたら強く生きられるかもしれない。あるいは絵が好きでスケッチかなにかの日曜教室にかよっている、そういう人だったら、水たまりに映った景色を見てレンブラントの絵のようだと感動できる。そういう人のほうがきっとつよいのではないか。

 こういうことを、私たちはふだんはお稽古事とか趣味というふうに思っています。俳句を作る、ピアノを弾く、花をいける、趣味にもいろいろあるでしょう。ところが、アウシュビッツのような極限状態のなかで人間の生きていく生命力というものを支えるためには、そんな日常の小さなこともまた大きなテコになり得たということを、ぼくはフランクルの本から学んだような気がするのです。

出典:五木寛之 生きるヒント愛蔵版

 

現在の私は、幸いなことにアウシュビッツのような収容所に入れられる可能性は限りなく低いと思いますが、それでも人生の様々な苦難に遭遇したときは、五木寛之さんの著書である「生きるヒント」の中に、まさに “生きるヒント” を見出して、何とかやっていけるような気がしています。

そして “ブログを書く”ということが、日常生活への感性を少し鋭くさせるとしたら、これもひょっとしたら、生きていく生命力を支える立派なテコになり得るのかもしれない、などと思ったのでした。