人生を変えた帯状疱疹物語

最近やたらと「帯状疱疹の患者が増加している」というニュースを目にする気がします。

ご存じの方も多いと思いますが、帯状疱疹(たいじょうほうしん)というのは、水ぼうそうと同じウィルスが原因の皮膚の病気です。子どもの頃に水ぼうそうを発症して治った後の体の中に、その後もずっとウィルスは潜んでおり、普段は免疫によって活動が抑えられているこのウィルスが、加齢や病気、ストレス等で免疫力が低下すると、再び活動を活発化させて増殖し、今度は帯状疱疹として発症してしまうというメカニズムだとか。

 

著名人が罹患して、神経痛のような後遺症で長年苦しんでいるというニュースや、数年前からは50歳以上を対象にした帯状疱疹ワクチンの接種を呼びかけるポスターやコマーシャルなんかもあったり、そして最近ではコロナとの関連もささやかれたりと、多くの方が身近に感じている病気かもしれません。

 

早期に発見して薬を処方されれば、発症した部位により痛みの違いはあるものの、人によっては学校や職場に通いながら治せるようですが、私の場合、この帯状疱疹を罹患したことが、後の人生に大きな影響を与える大事件となりました。

 

遡ること20年以上…3年半を過ごした一人暮らし先を引き払って実家に戻っていた大学4年生の私は、ある日電車へ乗り込んだ瞬間、右後頭部に“ピキっ”と電気が走ったような激痛を、一瞬感じたような気がしました。

とはいえ、就活も卒論も何とか乗り切り、残り半年をきった大学生活最後の正真正銘の自由時間を、どうやって楽しむかという解放感で浮かれに浮かれていたこともあり、首筋をちがえたくらいにしか思っていませんでした。

 

そして夜になり右首や顎の下に、不気味な水ぶくれが3個ほどできているのを発見し、右後頭部がけっこうな頻度でズキズキ痛み始めていても、何かのアレルギー反応と新種の片頭痛か?くらいのお気楽ぶりで、まだ事態の重さに気づいていなかったのです。

 

そして翌日、水ぶくれが右顔面に明らかに広がっている上、髪の毛で見えないだけで右頭皮にまで点在しているような・・・おまけに首も顔も頭も、右側が激痛で意識が度々遠のくレベルに達し、さらには高熱まで出てくる始末。

 

ちなみに当時はネット検索が世間に広がりつつあったものの、まだ我が家にはパソコンはなく、家族の誰もが“帯状疱疹”という単語さえ知らなかった上に、両親の病院嫌いは恐らく日本で17位くらいだった、ということを頭に入れておいて下さい。それから帯状疱疹は時間との勝負だということも。

 

両親は家にあった “家庭の医学” という古文書みたいな本から、姉は本屋で調べまくって厳選した本から、偶然にも「タイジョウホウシンという病気ではないのか??」と1日かけて後の正解となる結論を導き出してくれたものの、時すでに遅し・・・というのも、よりにもよって世間は楽しい(=病院が閉まる)3連休へと突入した直後で、皮膚科どころか休日夜間診療という、嫌な予感しかしない選択肢しか既に残されていなかったのです。

 

 

『 風邪ですね 』

高熱とナイフで刺され続けているような激痛で目の焦点も定まらず、水疱だらけのただれた顔面の私に向かって、その男はこう吐きすて、家族が必死で訴えたタイジョウホウシン説も鼻で笑って否定したのでした。今思い返しても、あの人は白衣を着たコスプレイヤーだったのではないかと、本気で思っています。

 

病名がわからない(風邪でない事だけはわかる)という状態が、人にどれだけ不安と絶望を与え、生きる気力さえ奪うのか・・・ということを人生で初めて実感したのが、この日の帰りの車中だった気がします。それと両親の病院嫌いがより加速したのも。笑

 

寝られず(痛みと水疱がつぶれるので横になれない)、食べられない(顔中溢れかえった水疱と痛みで口が開けられない)、という悪化の一途をたどる絶望という名の3連休を何とか生き延び、やっと、やっと皮膚科にかかれる日を迎えました。

 

最後の力をふりしぼってクリニックの受付をすませた私は、周囲が目のやり場に困る顔面の状態にまで悪化していたため、特別にリネン室のようなところで待つことになりました。

 

数分後、医療ドラマで主役を張れそうな、余貴美子さんを思わせるその人が颯爽と現れたと思ったら、私を見た瞬間に、

帯状疱疹です。もう飲み薬のレベルではないので、高いですが点滴をおすすめします。とはいえそこまで進んでいると、薬の効きが間に合わなかった場合は、右目の視力と右耳の聴力を失うのを覚悟してください」

と、これまたドラマのセリフのようなことを言われたのでした。この余先生が、その後の私の人生に大きく影響を与えることになる・・・ということを、まだこの時の私は知りません。笑

 

ベットで高額な点滴と水疱の治療を受けながら、病名が判明して治療をしている喜びにひたる一方で、右目と右耳の機能を失った場合は内定を辞退しないといけないのかな、などと、真剣に人生の軌道修正についても考えていた記憶があります。隣りで号泣していた母親も、複雑な涙だったのかもしれません。

 

こうして数時間後、明らかに薬が効いているのを自覚できた私は、何とかギリギリのところで生還できたわけですが、ギリギリといえば、水疱は目尻ギリギリの場所で、耳にいたっても奥に入りかけたギリギリの場所で、ギリギリ間一髪止まってくれたのは奇跡的でした。

 

その後も順調に回復し、心配された後遺症もほとんどなく、顔面の水疱跡も数年ですっかり消失して、今ではその痕跡はどこにもなくなったわけですが、帯状疱疹という言葉を耳にするたびに、あの時の強烈な痛みと恐怖を思い出すとともに、自分の免疫力と対話をするようになりました。

 

ちなみにこの帯状疱疹が引き金となり、新たな疾患を引き起こして負のスパイラルに入った話については、長くなりすぎたのでまたの機会にできればと思います。

 

ということで、心当たりのない皮膚の痛みや水ぶくれを、体のどこかに自覚したら、どうかこの言葉を思い出して下さい。

 

『 そうだ皮膚科、行こう。』