シミュレーションとシュミレーション

先日、テレビ番組に出演されているのを何気なく見たからか、歌人俵万智さんの本を初めて手にしました。

還暦を迎えた俵さんが、三十代の頃に綴ったエッセイ集『101個目のレモン』は、あらゆる物事に対する彼女の思いが凝縮された、とても面白い一冊だったのですが、ある部分を読んだ時、私自身が経験したちょっとした悪夢を思い出してしまいました。

 

それは “言葉の思いこみ” と題された中でのことです。

言葉の間違いは、一度思いこんだら、なかなか気づかない。しかも「うっかり」というよりは、大げさに言えば本人の知性に関わることなので、指摘するほうも、気軽には言いがたい。

俵さんの、それほど親しくはないものの、立派に新聞記者をしているという三十代半ばの知人男性が、「案の定」のことを、いつも「アンノテイ」と発音する・・・という嘘みたいな事実について、次のように見解を述べています。

私が彼の家族や恋人だったなら、すぐに教えていたと思う。「それ、アンノジョウっていうのが正しいのよ」と。

が、それほど長いつきあいではない私は、自信に満ちて「アンノテイ」と言う彼を前にすると躊躇してしまう。恥をかかせることになるし、その間違いを悟ったときの気持ちを考えると、やはりひるんでしまう。小学生ではないのだ。この三十数年間を、ずーっと遡って彼は恥ずかしさを感じてしまうだろう。ひいては、「なぜ言ってくれなかったんだ?」と、家族や恋人を恨むかも知れない・・・。

いろんなことが、ぐるぐると頭の中をかけめぐり、結局は、まあアンノテイで話も通じているわけだし、何も私がその役をかってでることはないか、と思ってしまうのだ。たぶん、周囲の人はみなそうなのだろう。が、もし自分が彼の立場なら、一日も早く指摘してほしい。今度会ったら、思いきって言ってみようか。

 

私自身、以前の職場でとある資料を作成してプリントアウトし、おまけに何度も何度もその単語を声に出して、皆の前で発表までしてしまったという痛い経験があります。

 

それこそが「シミュレーション」という言葉でした。

英語といえども日本でも日常化しているこの単語。ずーーーーっと「シュミレーション」だとばかり思っていた私は、結構な頻度でそれまでも堂々とシュミレーション発言をしていたわけですが、様々な国を旅し、英語の語学学校まで通っていたくせに、(偶然本で知った)数年前まで間違いに気づきもしなかったことを考えると、先のアンノテイ男性のことを他人事とは決して笑えないのでした。

 

そして、他人の間違いには内心厳しかった自分自身を、猛烈に省みたのです。

というのも、私の苗字にややこしい漢字が含まれているのですが、メールやハガキで宛名が微妙に違うと、“あっこの人は人の名前に注意を払わないんだ” なんて内心思っていたくせに、自分の知人の“サイトウ”さんには、変換して最初に出てきた“斉藤”ばかりを無意識に使用していた体たらくな私って・・・「バカバカバカバカ…」と猛省したのでした。

 

以来、心を入れ替えた私は、酔っぱらって吐きそうになっている人を見て「嗚咽(おえつ)している」と言った聡明な知人に、(えずいている。だね)と心の中で優しくささやいたりしているのですが、先の俵さんの見解と同じく、相手がそれほど親しくない関係性の場合、やっぱり聞き流している自分がいます。

 

何気にデリケートな問題だよなぁ・・・なんて感じたわけですが、この問題については考えれば考えるほど、自分の中にもまだまだ爆弾単語があるような気がしてきて、ビクビクしながらブログに取り組んでいる私なのでした。